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証し

25周年に寄せて…‥

2004年8月4 日 受洗
坪井 昌子

イエス様を信じる前も後も、目で見、耳で聴き、手で触れることのできると ころまで、神様がご自分をお現しになり、確かに、私に触れてくださったシー ンが 幾度となくあります。 そして、その一つ一つの出来事を「証し」という形に表現することも可能でし た。

が、しかし。。。 私の身の上に起こった、自分的には苦しかった過去などは、 世界の様々な悲しく、酷い出来事に比べれば、取るに足りない事に思われ…‥ 注がれた主の御業を思い巡らすと、既にすがすがしく、 この機会に書くのは、相応しくないように感じられました。 私の人生で、決して避けることのできなかった、2 つの別離がありました。 こんなにも辛い中で、こんなにもイエス様に頼るのか?と思いました。 理解できない、納得できない事があっても、神様に不信感を抱くどころか、 神様の圧倒的な臨在の中で、憩い、護られ、平安を保ち、 神様なしでは、あの時をどう乗り越えていったのか?わからないと、 今、振り返ることができます。 この2 つの愛する者との分かれを通して クリスチャンとしての生き方が変わりました。 捉えていた神様の世界観が変わりました。 人とのスタンス、特に「関わる」ということにおいて、変わりました。 ※そこから、召しと使命と賜物も今までとは、違う方向に導かれてきました。 変わったというより、神様の手の中で、まるっきり変えられてしまったとし か言いようがありません。 その2つのうちの1つの出来事が起こった時に生まれた「証し」を 『25周年の記念の証し』として、献げ、大切な兄弟・姉妹と分かち合いたいと思 いました。 【愛する我が弟、石田具幸召天記念証し】 弟告別式・・・・その後

「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。 それは、患難が練られた品性を生み出し、 練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。 なぜなら、私達に与えられた聖霊によって、 神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 (新約聖書・ローマ人への手紙5:3~5)

人形のようにぶらさがり、 うつろな目で部屋を見つめていた弟を見つけた瞬間から、 自分が携わっているにもかかわらず、どこか枠の外にいて、 納得できず、起こったことが信じられず・・・・ まるで映画のシーンのように、人と場所と時間が過ぎ去っていった あの何日か。。。 しかし、私の霊は、確かに覚醒していて、神様の世界とコミットしていた。 告別式の前日、弟の冷たくなった額に手をおいて祈ってくださった、 また、告別式での惜別の言葉、 次の日の朝祷会でのメッセージ、 いづれも前任の主任牧師(私の義理の父親にあたる)が語った言葉は、 私が壊れるのを阻んだ。 この世では、既に死人で、怪物並みの霊性を持つ愛の器を通して神様は、 はっきりと語られたのだ。 「昌子が完成した」と。 そして、そのように適切に表現することこそできなかったが、 うっすらと、私も何故か?同じようなことを感じていたのだった… 感じていたというよりは、どちらかというと、聖霊様のインスピレーションに 近かった…… 弟の肉体がこの地上から取り去られ、 結構、何でもどうでもいいような気になって・・・ 何でもどうでもよくなかった少し前を思うと、 何だ、やっぱりまだ全然、自我に死んでなかったなと、 器としての未熟さを実感したけど。 もし、私がもう一度主の前に正され、神の道具として整えられるために、 人一人の命が(この場合弟の命だけど)、失われることが必要不可欠だとしたら、 私という人間は、何と罪深く、業の深い生命体なんであろうかと、驚いた。 そして、世界の基が置かれる前から、世の終わりまで、 すべてを治められる神様の青写真を思う時、 主のなさる事は、まつ毛一本まで、たがうことなく、無駄もなく はじめから、全部決められていることなのだと、愕然とする。 主の御計画は、計り知れない・・・・・ 人間に理解できることなど、ほんとに微々たるものなのだ。 私は、腹の底から恐ろしくなった―――― 主を恐れ、かしこむことをはじめて知った―― 弟の死の形は、「自死」であったかもしれないが、 主の主権をそこに認める時、それは自死でさえない。 死の形態を人間側がカテゴライズすることはできない。 神様が、「生」も「死」も握っておられる。 すべては、「主の時」なのだ。 神様の時間軸の中では、私達の人生など、塵かカビに等しい。 それなのに、神様は委ねてくださっている、私達人間それぞれに。 だから、主の喜びのために生きようと思う。 主の青写真の一部を織りなしたいと願う。 私達は何者でもない。 しかし、この時代、この「Fukushima」という特別な地域に召された者として、 使命を全うできるよう、 精一杯、主のために生かされたい。 聖霊の炎で熱く燃えて。 100年先を祝福するべく。 この地上に残された者は、本気になって命にかかわるしかない。 人を恐れず、神を恐れ、 そして、神様の眼差しと愛をもって。

「あと一粒の涙で あと一言の勇気で 願いがかなう、その日がくるって ぼくは信じてるから 君もあきらめないでいて 何度でもこの両手を あの空へ のばして」

弟が、好きだった「ファンキー・モンキー・ベイビーズ」の歌の歌詞。 きっと、励まされていたに違いない。 これ以上に、福音が響いていたと信じたい。 私も届いていきたい。 もう、遊びはおわりだ。