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キリスト愛の福音教会

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牧師

自己紹介

坪井 永光

1973年(S.48)9月13日 名古屋生まれ郡山育ち。 安積第一小学校~安積中学校 ~安積高校を経て 同志社大学大学院神学研究科卒。 2013年NHK大河ドラマ『八重の桜』で 母校の創立者・新島襄&八重が とりあげられ、妙な興奮状態にある。 教会に併設のカフェ"Level 0(レベル・ ゼロ)"を運営。 普段はコーヒーを淹れていて、たまに 牧師やっている(?)。 被災地福島にあって、 「いつ死んでもいい」と言いながら 夢は「長生きすること」 別に、長生きに興味ないんですけど、 「呪われた土地」みたいに言われる この場所でイエス様(Jesus) の祝福 を証明していこう!と思う☆ なので、 「イエス様(Jesus)信じ、 祝福受けて、長生きする」 が夢――。 聖書(Bible)にはあなたのことも 祝福する特別なメッセージがあります! ◆キリスト愛の福音教会牧師 ◆自死(自殺)予防をテーマに活動 本人や家族、遺族の相談をうかがい ます。

牧師からご挨拶

牧師からのあいさつ――今日も心におめでとー

2012/11/15

皆さん、お元気ですか? 僕たちは、21世紀初頭の日本、しかも「福島」という ロケーションに生きています。 ここに「教会」があるっていうのはどんな意味があるでしょう?

東日本大震災が起きた2011年、世界中のクリスチャンが日本を覚え、 福島を救うために尊い献金や物資、そして祈りを捧げてくれました。 僕たちが信じる神様は、時に試練を与えます。 でも、同時に愛を交わす機会を得ます。 教会は、新しい愛が創造されるTPO。

ご一緒に 「最善の時に最善のことを最善の方法で最善にしてくださる最善の神様」を信じましょう☆ *そんなアホな、と思うあなたはどうぞ覗いてください・教会フェイスブックページ

東日本大震災発災に際して

僕たちは3・11以来物事が大きく変わった。 「別に……」とか言ってはいられない、確かに僕らはムチャクチャ揺るがされた。

地震で揺らされ、建物が壊れた。 津波に飲み込まれ、多くの人命が失われた。 放射能で汚染され、「安心」も「安全」も吹っ飛んだ。

それでもまだ、過去の生き方にしがみつくのか?

「何とかなんだろ」 「真面目に生きたって一緒」 ――もちろん、「何ともならない」と悲嘆にくれるのが良いことではない。 「真面目に生きれば大丈夫」と言う程楽観的ではない。

ど、僕たちが震災後の福島(あるいは日本) で生きていくのに、「間違いのない希望」がなければ(未来)は築けない。

信じられるものなんかない。 信仰は弱い人間のすること。

などなど――よく聞いてきた。

でも、いろんな意味で極限をつきつけられた僕たちに 「信じられるもの」がないなら、むしろどう明日を生きてったらいいんだ?

聖書はそんな僕たちに(答え)をくれる。

「わたしはあなたがたのために立てている計画 をよく知っているからだ。 ――主の御告げ。―― それはわざわいではなくて、平安を与える計 画であり、あなたがたに将来と希望を与える ためのものだ。」 (旧約聖書・エレミヤ29章11節)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷 は軽いからです。」 (新約聖書・マタイ2章29~30節)

旧約聖書の時代(バビロニア帝国のころ) 「主」として自分を現わした神様。 新約聖書の時代(ローマ帝国のころ) 「イエス・キリスト」として自分を現した神様。

同じ神様が今も生きている。 今も僕たちに出会ってくれる。

「キリストは、私たちのために、ご自分のいの ちをお捨てになりました。 それによって私たちに愛がわかったのです」 (新約聖書・Ⅰヨハネ3章16節)

君のため、2000年前に十字架にかかって 死んだイエス・キリスト。 どうにもならない君の罪のため、自分を捨てたイエス・キリスト。 その動機は……(愛)だという。 いのちがけの愛に触れる時、人生が新しく変わりだす。

主は遠くから、私に現われた。 『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、 わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』 (旧約聖書・エレミヤ31章3節)

今日も君のために誠実な神様が(永遠の愛)で愛してくれる。 そんな愛に支えられ、僕たちも3・11の向こう側(Beyond)へ歩み出そう!

ショートメッセージ

クリスマス

「クリスマスって何?」

きらめくイルミネーション。 緑や赤、白や青、金色に輝くデコレーション。 ケーキにチキンにポテトチップ――?

子どものころ、車のチェーンがガラガラ鳴る音が「サンタさんのそりが来た?」 と思って、窓の外を眺めてた。 クリスマスの朝、プレゼントが枕元に置いてあることを楽しみにしてワクワクしてた。 教会学校のクリスマス、日曜礼拝のクリスマス、ギデオン(聖書配布協会) のクリスマス、商工会議所のクリスマス、そして家庭礼拝のクリスマス……。 いくつクリスマスをハシゴするかをカウントして嬉しがっていた――。

学生時代、京都に引っ越し、「この際だからいろんな教会見ておこう」と思って、 4月から毎週日曜日あちこちの教会をめぐって歩いた。 日本基督教団、バプテスト、メソジスト、ナザレン、純福音、ロシア正教、 カトリックなどなど有名無名の教会をひたすら訪問し、礼拝に出席した。

半年、様々な教会に行きながら、自分の魂がからからにひっからびているのを感じた。

10月、不思議と導かれた宇治キリスト教会(バプテスト教会連合)に腰を落ちつけ、 通うようになっていた。

魂の渇き――毎週日曜礼拝に通うだけでは満たされない、「根差す」 ことの大切を感じた――を覚えながら、 「このまま根無し草的に教会を渡り歩くことはできない。 自分の通う教会を見つけたい。クリスマスをお客さんで過ごしたくない」 と心の中の衝動を抱えながら、神様の導きに従ってその教会に通うことを決めた。

牧師先生はじめ、兄弟姉妹が温かく迎えて下さり、 20年近くたってなお祈りに覚え支えて下さっている。 大学に入学して初めてのクリスマスをその交わりの中で過ごしたことを 今なつかしく思い出す。

当時、新聞配達をし、奨学金を頂いていた(新聞奨学生)。 「ツボイ君、クリスチャンやんな?クリスマス休んでいいで^^」 店長の配慮で、クリスマスの日の朝は新聞配達の休みを頂き、一晩教会で過ごした。 クリスマス・イブから当日にかけ、学生同士で一泊キャンプをした。 礼拝の日、会場として借りていた勤労福祉会館でクリスマス礼拝を捧げた。

……どうして、こんなに「クリスマス」にこだわるようになっただろう?

単に、「○○さんの誕生日」というにはとどまらない意味がある。